新型iPhone 世界的には不発?

iPhone vs androidの争いは、当時誰もが予想していた通りの展開となった。
そう、MAC vs Windowsと同じ運命。

統計を見るとわかるが、Apple製品が一番人気なのが日本。
次に本国アメリカ。

日本でのApple製品はオタクのステータスシンボル。
オタクの多い日本では根強い人気だ。
ブログを書く人はだいたいオタクなので、Apple信者が多いね。

私もMACiPhoneを持ってはいるが、WindowsAndroidに比べて優れていると感じた事は一度も無い。
子供のおもちゃとしてならいいなって程度かな。
なので持っているだけで信者ではないよ。

長年iPhone一筋だったが、進歩の無さにあきらめてandroidへ乗り換えた。
するとどうだろう、冗談抜きで感動の連続。
なんかジャングルを抜け出して現代人になった気分だった。
androidが全世界でシェア80%なのも納得する使いやすさかな。

かつてMACは、日本でしか売れない状態で倒産の危機になった。
iPhoneも徐々にその傾向になりつつある。
そして今回、挽回すべく生産の7−8割を低価格なiPhone5cに割り当てている。
iPhone5sが品不足になると言われているが、Apple関係者のコメントではどっちのモデルも予定を大幅に下回る注文量というのが明らかになった。
すなわち不発??
米各キャリアも、そんなに売れないと予測して入荷量を抑えているもよう。

日本では売れるでしょうね。というか売らないといけない大人の事情があるんです。
日本だけiPhoneのがシェアが微妙に高いのは、そういう大人の事情が大きいと思います。
Docomoとの契約ではかなり緩和されたらしいけどね。

あとDocomoの顧客流出はiPhoneを扱っていないからとApple信者は言うが、それは直接の原因ではない。
iPhoneがこの世に存在しなくても、キャリア乗り換えでandroid最新モデルが無料なら乗り換える人多いでしょってこと。
初めからiPhoneを扱っていても、圧倒的な顧客数を誇るDocomoからの大量流出は避けられない。 まぁ流入量が増えるぶん、ましだけどね。

ってことで、流行りのiPhoneネタでした。

遅れを取る日本企業〜電子書籍〜

http://mainichi.jp/enta/book/news/20100503ddm012040031000c.html
これを書いている人は、本気だったら頭が弱いですね。ただの意地だろうけど。


では、繰り返される歴史を見てみる。
人間というか、世界の性質上、変化にはエネルギーが必要だ。
許容できる範囲で問題がなければ、それを維持したいと思うのも普通だ。
いくら便利になろうが、現状を維持して保守したくなる人は多い。
いくら過去の事例がそろってようが、今度こそは違うと願う人は多い。

こういった心理は様々な言い方がある
「保守的」
「食わず嫌い」
「拒絶」

音楽について過去を振り返ってみよう。
「レコード」と言うものが主流だった大昔。私がまだ幼かった頃。
ある日「CD」が登場した。
しかし意見は2つにわかれ、現実派はCDを受け入れ、保守的な人はCDを拒否し、レコードを頑なに崇拝した。
時は流れ、CDが急速に普及し、レコードは姿を消していった。
しかし一部のマニアがコレクションとしてレコードを求めることもあり、完全に姿を消す事は無かった。

そして現在は、DLが急激に広まりつつある。
初めてはやはり抵抗する人が多く、あらゆる理由を作って拒否をした。
人はまず理由無しの感性で拒否をし、後から理由を作る性質がある。
理由は、ジャケットが無きゃだめだろう、ネットで買うなんて怖いなど。否定派は何故かそれが「あたりまえ」として「普及しない」と言う。
現実は、急速に普及しており、CDの売り上げが落ち込んでいった。

TVでは、CDが売れない理由を不法コピーのせいだと決め付け、ネットを批判した。
現実的には、不法コピーと売り上げとの関連性はきわめて低い。
不法コピーをする人が不法コピーをしなかったらCDを買うか?答えはNOだ。
不法に1万曲がDLされても、DLする人はもともとCDを買う気が無い人だ。DLできなきゃそれで終わりとなる。価値観の違いというものだね。
CDが売れなくなったのは、DL購入をする人が急増しているだけ。
何故かそれを隠したがる・・・・裏でのなんらかのやりとりがあるのか、ただたんにアンチが多いのか。


さて、電子書籍に話を戻してみよう。
紙から電子へ・・・・・
頭の固い人たちは拒絶し、紙を好むだろう。
その多くは、ただの「食わず嫌い」だ。何も知ろうともせず、とりあえず拒否するグループだ。
いろんな分野で「拒否する人々」の心理パターンを見ると実に面白い。
最初はあんなにも嫌って罵声ばかりだったのに、いざ自分が使うと理解を示し、受け入れ、気に入る。
実に人間とは不思議な生物だ。 これが「保守」であり「保存」の法則なのだろう。
電子書籍も最初から「嫌」という先入観で見れば、やっぱ「嫌」で紙が良いと言うはずだ。

紙媒体の衰退は避けて通れないすでに始まっている流れである。
なれればなれるほど「紙」よりもはるかに便利だからだ。
特にウサギ小屋と比喩される日本社会では、電子書籍はまさにうってつけとなるだろう。
部屋に大量にあって邪魔だった本が、全て無くなるのだから!
何処に行くにも、大量の本を所持しているのと同じ状態を維持できるも良い。どんな本もどこでも読める。本屋まで行かなくてもいつでもその場で買って読める。
しかし、コレクションアイテムとしての紙媒体は持続していくでしょう。レコードと同じように。


日本は大好きだが、日本人の気質は面倒でうざったくて嫌いだ。

国産RPGはRPGにあらず

ロールプレイングゲームとは・・・・
よく言われるのが、役割を演じるゲーム?
かなーり曖昧なジャンルでもあるよね。

国内のメジャーなRPGといえば、ファイナルファンタジーだろうか。
ドラゴンクエストも有名ですね。
そういった国内人気ROGの中味はどうだろう。

「コマンド操作でひたすら敵を倒してレベルを上げるゲーム」

なんか、RPGじゃない気がしないでもない。
RPGを元にした別のジャンルに見えてくる。
だって、何の役割も演じていないでしょ。
あえて演じる言うならば、戦闘シーンを演じているのかな。

物語は強制かつエスカレート式に突き進む。そこに演じる余地は皆無。
操作は、ただたんに文字の表示を次へ進める操作。
本のページをめくる行為が役割を演じるなんて思う人はどうかしている。

海外での日本RPGの評価はどうだろうか?
国内で社会現象にまでなったドラゴンクエスト
海外では評価無し。 まったく無名のゲーム。
では、今や独走中のファイナルファンタジーはどうだろうか?
ファイナルファンタジー8あたりから、海外でも認識されはじめた。
なぜ8から?理由は、「画面が綺麗」
ゲーム内容はまったく評価されていない。
ただたんに、アニオタがFFのアニメを見るためのものでしかない。

日本RPGのゲーム部分は、海外ではこう評価されている。
「くそげー」
また、RPGではなくJRPG(ジャパニーズRPG)という言い方をして分けている。

私が日本のRPGを正常なジャンルで振り分けるとすれば、「マルチメディアコンテンツ」「アドベンチャーゲーム」などになるのかな?
決してRPGではない。
ひたすらダルイレベル上げという作業を乗り越えると、報酬として物語の続きが見れるゲームだ。
私は国産RPGも好きだったので、数多くのRPGをやった。
しかしどれも、途中でレベル上げに飽きてクリアするゲームはほとんど無く、ひどいゲームバランスのRPGばかりだった。ドラクエもFFも例外では無く、ゲームとしては最低だった。


では、本場の海外のRPGはどうだろうか?
国産RPGとは、根本的に違う。これがRPGという物なのかと思う。国産と違い、文字通り、役割を演じるゲームになっているのだ。

それはどういう意味か?
自分で考え自分で行動するゲーム。ゲームの主人公になりきって遊べるゲームだ。

分かりやすく言い換えると
国産RPGは、物語を見て楽しむゲーム。(自分で演じてはいない)
海外RPGは、物語を自分で紡ぐゲーム。(自分で演じている)


ゲームではどう実装されているか。
海外PRGで共通なのは、攻略ルートは自由。
無数のイベントが用意されていて、自由な順序で攻略できる。
攻略順番が固定されている国産とは真逆だ。

国産は、まず次に行くべき場所を指示され、そこでイベント発生。
解決したら、次へ行くべき場所を指示され・・・これがクリアまで続く。
自分で判断できない種族と言われる日本人にぴったりの、一本道ストーリーが基本だ。指示されてからその通りに行動するだけだ。
分岐が1つあるだけで騒がれたくらいの一本道基本なゲームとなっている。

海外RPGは、まず自分で考えて行動する。その結果イベントが発生する。イベント内では指示があるが、全てはプレイヤー次第。
またに、自由な「旅」が出来るのだ。
分岐はプレイヤーの数だけ存在する。中核のストーリーに変化が無くても、それまでの道のりはプレイヤーが作る設計になっている。


なぜ海外RPGは国内でヒットしないのか?
海外RPGを遊ぶ日本人の多くはこう感じる。

 「何をしたらいいのかわからない」

海外RPGの話題になると、必ずと言っていいほど、そのコメントが出る。
そう、自分で物事を考えて判断できない典型的な日本人だと、海外RPGは意味不明なゲームに見えるのだ。
日本人は自由を与えられると生きていけない種族というのが悲しい。

海外RPGは、何をしたらいいのか?
遊んでいる人から言わせると、そんなの「自分の好きな事をして遊べばいい。」「いちいち指示されなきゃ何もできないのか?」
となる。


私は子供の頃からずっと思っていた。
なんで自由に行動できないんだ?もっと自由に冒険するゲームがしたい。 敵が使っている装備がなぜ奪えないんだ?いつか自由なゲームでないかなぁ・・・と。

海外RPGを知ってからはもう、国産RPGがRPGに見えなくなった。特に旧式の国産RPGの多くはゲームですらない。




国内である程度ヒットした海外RPGで代表的なのは、oblivionだろうか。世界的に大ヒットした超大作だね。まさに自由な冒険がそこにあった。ユーザーメイドの拡張ファイルも無数にあり、取り入れて世界を自由にカスタマイズもできて長く遊べるゲームだ。
難点は、日本人には受け入れがたいリアルすぎる世界だ。
特にキャラクターグラフィックもリアルを追求しているので、ドラマやアニメのような綺麗な顔とか無い!!薄汚れた人ばかり。これも修正ファイルでどうにでもなるのだが。
やはり「見る」からには、現代人が見ても耐えられる容姿は欲しいね。

国内でもかなりヒットした海外RPGは実は存在する。GTAだ。
日本人の感覚だとRPGとは言えないが、良く考えればRPGそのものだ。ファンタジー要素とレベル要素が無いだけだ。
ただこのGTA、国内版と海外版では内容がかなり違うので注意。
国内版は、色々と自粛してゲーム内容を大幅にカットしている。
ちょっとした悪い意味での問題作でもあるからだ。



最後にゲームとは関係無い見た目の違い。
日本はアニメ好きだが、ゲーム上での表現はかなり手抜き。
物語とアニメシーンが重要であり、ゲーム上の表現はかなり手抜きだ。
海外はリアル好き。リアルを追求するあまり、えぐい、ぐろいが多いが・・・・。
一番目に付くのは、「光と影」だろう。国産は適当に光で満ち溢れている。
リアル好きな海外は、光と影の演出にも注意を払っている。
その他動きにこだわったり、矢を射ればちゃんと敵に矢が刺さっていたりなんかあたりまえ、細かいリアルさは日本には無い物だ。

この外人(アメリカやヨーロッパ)と日本人の違いはゲームに限った事ではない。
子供の人形も有名な話で、同じ人形でも日本向けはアニメのように童顔にし、海外向けは大人っぽくリアルにする。
ヨーロッパの人形なんて・・・・日本人から見たら怖いよね。
外人から見れば、日本人は基本的にロリコンらしい。



と、日本産を叩いてるが、私は日本アニメは好きだし、海外のリアル顔より日本の可愛い顔のが好きだ。
海外のゲームシステムと日本のロリグラフィックが融合した神ゲームは出無いのだろうか。

自分の目で見たものしか信じない

よく言う人が居ますよね。
「自分の目で見たものしか信じない。」

結論から言えば、こう言う人は逆に騙され易い人です。
自分の目で見れば盲目に信じてしまうからです。
極端に言えば、手品じゃないという前提で見てもらう事ができれば、手品だとばれずに騙す事ができます。

本気で見た物しか信じないと言う人は、「錯覚」の要素を考慮できない人です。
本当に目で見た物なのか?そんなことは本人は簡単にはわかりません。

錯覚の代表例が「幽霊」です。
文明の発達した今でも、古代人のように「幽霊」の存在を信じる人は多く居ます。幽霊の正体が科学的にも明確に解明されているにもかかわらずです。

大人になっても「幽霊」が見える人は、一種の障害者でもあります。
言い換えると「病気」です。変な意味ではなく、医学的にです。
脳が成熟していない子供は、脳の仕組み上「幽霊」が見えてあたりまえです。目からの信号に想像の信号が混ざっておきる現象です。
しかし、脳が完成するはずの大人で見えるのは、脳が未発達のままとまってしまった可能性があります。もしくは脳の他の病気が原因かもしれません。

そもそも目で見えるとは何か。
物を見る(識別する)機能は、産まれた時はありません。
赤ちゃんの時に様々な経験を通して、見える状態、すなわち認識/識別が可能となっていきます。
よく「いないいないばー」とかやりますよね。
あれは、実は赤ちゃんの認識能力の訓練にもなっています。

では、赤ちゃんじゃ無い場合はどうなるか。
たとえば、生まれつき目が見えない人が、大人になって医学が進歩して目が見えるようになったとします。よくある話です。
しかし現実はどうでしょう?
目が見えることにより、本人は地獄を見ることになります。
正確に言うと、見えてるけど何も見えていないのです。
天井はどれ?壁はどれ?どれが私の手?人間はどこ?
目の前に人間がいても、ただの背景としか認識できません。
頭の中はパニックになるでしょう。
そして多くの人は、やがて見ることに疲れ、何も見なくなります。
まさに赤ちゃんの時代からやりなおしになるのです。知性が身についてしまった大人には、普通は耐えられません。
まともに認識できるまで、何年もの歳月がかかります。

上記を踏まえて、幽霊の話に戻ります。
幽霊写真というものがありますよね。女性の顔がうつってるとか。
その原理が上で説明した物です。
何か目で見たとき、人は過去の経験に基づき、識別しようとします。
少しでも人の顔に近い部分があれば、それは人の顔として脳が認識し、でも人じゃないことが明らかなので、幽霊となるわけです。
幽霊大ブームの時代は、なんでもかんでも幽霊写真になりましたっけね。まるでパズルゲームです。

挙句の果ては、夢と現実がごっちゃになるってこともあります。
もう何が見た物か、脳が作った物か、本人にすら難しい判断です。

ではここで、一気に壮大な宇宙へと目を移してみます。
空に輝く無数の星。目に見えますね。でもそれは真実ですか?
ある空に2つの星が見えます。その2つの星は存在していますか?
空に見える星がそこに存在していると思いますか?
ぱっと見ただけでは、誰にもわかりません。
光も重力の影響を受けます。重力で進行方向がかわり、迂回して届いたり、2つに分かれたりします。
すなわち、星の実際の位置は見ただけではわかりません。2つ見える星が実は1つだったりします。


最後に
目はただの可視光線の受信機です。映像は脳が作っています。
この時点では、見えてるとは言えません。
そして過去の経験というデータベースを使って物を認識します。
認識して初めて見えたと言えます。
データベースに不足があれば、正常な認識ができません。すなわち見えません。
外人の顔が識別しにくいのはそのためです。「○○人」というひとくくりで認識しまい、個々の違いが見えないのです。
目は真実を見せてはくれません。それは幻想です。
見た物を信じる前に、真実を見極める知能を養ってください。